由香里が家に着いたのは、周りが静まり返った夜遅くのことでした。玄関の外からタクシーのドアが閉じる音が聞こえます。
一人で妻を待ち続ける呵責から解かれる安堵とともに、どのように由香里へ言葉をかければ良いのか、迷ったままの自分に対する焦りが入り混じります。
暫くして玄関の鍵が回る音がし、ドアを静かに開けて由香里が入ってきました。岩崎とひと時の夜を過ごした妻が、再び夫の元に帰ってきてくれたことに、私を苦しめていた猜疑心は僅かながらも消えかかりました。
「ただいま…」
最初に言葉を発したのは妻の方でした。
彼女が後ろめたい思いをすることの無いように、私が先に言葉をかけようと思っていました。しかし、居たたまれない妻の気持ちが、それを上回っていたのでしょうか。
そして、靴を脱ぐために足元に目を向けているのも、私と顔を合わせることを避けようとしているからでしょうか。
「お帰り…」
由香里を迎えるために、真っ暗な寝室で思い巡らせていた様々な言葉は、何一つ残らず私の中から消え失せていました。
「ごめんね…」
まるで私に対する罪を犯したような妻の一言でした。取り繕うように無言で頷くのが精一杯だったのです。自分の不甲斐なさに、情け無い思いが込み上げて来ます。
「由香里… ずっと待ってたよ… 由香里を想いながらずっと待ってたよ」
私は思わず妻を抱き締め、何度も何度も偽らざる想いを彼女の耳元で口にしました。
頭の中で考えた言葉よりも、それが私にとって最も彼女に伝えたかった心の内だったのかも知れません。
微かな甘い香りに包まれた由香里を両腕の中に感じながら、私は体を内から満たす情愛の高ぶりに浸りました。刹那の中で耐え続けた孤独の苛みが、由香里を抱きしめることで報われたような気がしたのです。
由香里は何度か小さく頷き、あやすような仕草で私の手を解きましたが、相変わらず目は伏せたままでした。
もしかしたら今夜、由香里と岩崎の間には何事も無かったのかも…
電話で岩崎が話したことは、私を揶揄するための戯れ言だったのかも…
今更、何の根拠も無い、その場限りの言い訳に似た思いが心をよぎります。
妻は、口元に微かな笑みを浮かべて私の横を通り、寝室に入りました。
私は後を追って中に入ることを躊躇していました。まだ一瞬たりとも二人の目線が重なり合っていないことに、小さな焦りを感じていたからでしょうか。
由香里はベッドの枕元にある小さな灯りをつけ、何事も無かったように着衣のボタンを外します。
屑篭の中にある、夫が自慰に浸りながら妻を待ち続けた証に気付いたのか、背後にいる私の方を振り返りました。
妻が家に帰ってから、やっと今になって二人の目線が合ったのです。私にはそれまでの時間が何倍も長いものに感じられました。
しかし彼女の目はいつもの由香里ではない気がしたのです。それは彼女を愛する夫だけが気付く、他の誰にも分からない僅かな違いだったのかも知れません。むしろ、自分にしか分からない小さな不調和だからこそ、妻の仕草が何かを隠そうとしているように思えたのでしょうか。
何を取り繕おうとしているの?…
岩崎と愛し合ったのは今夜が初めてではないのに…
夫である私が見ている前で岩崎とセックスしたくせに…
何故か胸の奥に、私自身が望んでもいない辱めの言葉が泡のように浮かんできました。背徳にまみれた私の欲望が満たされた筈なのに、悪意の混じった辱めを心の中で彼女に向けていたのです。
今、判ったよ… 由香里はきっと偽善者なんだ…
淫らな自分を隠すために貞淑を装った偽善者なんだよ…
だから仕方無しに夫の願望を受け入れた振りをして、他の男に抱かれたのかも…
だとすれば、全ての辻褄が合うはず…
きっと、帰ってきた直後に彼女が口にした「ごめんね…」の一言には、私が知らない意味が込められているのでは…
心を過ぎる僅かな疑いは、次第に理不尽な疑念へと駆り立てます。
もしかしたら、私が岩崎と出会う前から、由香里と岩崎は関係があったのでは…
由香里に対する私の寝取られ願望に付け込んで、本当は岩崎が持つ寝取り願望を叶える手伝いをしているのでは…
何の根拠や証拠も無い、無責任で身勝手な猜疑心が次々と交錯しながら絡み合いました。様々な疑いが互いに連なり、胸を奥から突き立てる鼓動の刻みを煽り立てます。
愛する妻が他の男によって理想の妻へと近づく度に、背徳に彩られた至福の副作用が私を苛み続けるのです。
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